私は宮城谷さんの春秋・戦国時代を舞台にした作品を中心に読んできました。そこで困ったのは、春秋時代には多くの国があり、登場人物も多彩なことです。すぐに国と人物が混乱しそうになります。そこで、簡単ではありますが覚え書きを書いてみました。資料の多くは Wikipedia に寄っています。
春秋以前
中国神話
中国の歴史 (?) も日本と同じ様に神話から始まります。宇宙を作ったとされる盤古神、人を作ったとされる女媧神、その夫婦 (もしくは兄妹) とされる伏羲神などが代表的な神々です。
次に三皇五帝について述べなくてはなりません。三皇は神、五帝は聖人とされていますが、文献によって誰を三皇・五帝にするかはまちまちです。
Wikipedia では、三皇について 5 つの諸説 (ref. 史記、春秋緯運斗枢、礼緯含文嘉、白虎通、帝王世紀) が紹介されています。例えば史記は天皇・地皇・泰皇をもって三皇とし、春秋緯運斗枢は女媧・伏羲・神農をもって三皇とする、といった具合です。
三皇に続くのが五帝です。五帝についても Wikipedia は 6 つの諸説を紹介しています (ref. 大載礼記・史記、戦国策・易経、礼記・淮南子、世経、三統経、資治通鑑外記)。史記は黄帝・顓頊・嚳・尭・舜、戦国策は伏羲・神農・黄帝・尭・舜の五人を五帝としています。
夏
神話の時代から、実在されたとされる王朝の時代へと入ります。中国最古とされる王朝が夏です。紀元前 2070 年頃に樹立されたとされています。夏王朝の始祖は禹です。帝尭の時代に黄河の治水事業にあたり、後に帝となります。夏王朝より前は世襲制ではありませんでしたが、夏王朝に入ってから世襲制となります。夏王朝は 17 代続いたとされます。
「沈黙の王」は短編集です。このうち、第二短編「地中の火」が夏王朝時代を舞台にした作品です。夏王朝五代目の時。后羿とその部下・寒浞が夏王朝滅亡まであと一歩とせまります。しかし、蟻の隙間から計画は露と消えるのでした。
「沈黙の王」に収録されている他の四編は以下の通りです:
- 沈黙の王: 殷 (商) の時代。甲骨文字を作った 27 代・高宗武丁のお話。
- 妖異記: 周 (西周) 崩壊を描く。幽王と笑わない王妃・褒姒、周の存続を願い独軍奮戦する鄭公・友のお話。
- 豊饒の門: 妖異記の続編。鄭公・友 (桓公) が死ぬお話と、東周を再健する鄭の武公の活躍のお話。
- 鳳凰の冠: 春秋時代。晏子、子産と同時代。羊舌氏の叔向が主人公。晋の平公に仕え、夏姫の娘と結婚する。
殷 (商)
夏王朝の桀王は美姫・末喜に溺れ、政治を省みなくなりました。そんな王朝を支え、最大の勢力を誇っていたのが昆吾氏です。この頃、商は小さな邑 (くに) でしかありませんでした。商は葛伯の横暴に耐えかねていました。商の湯王は葛伯を伐ち、民と共に九夷 (夏から見て東方の夷族) へと逃れます。つまり、商は中華を去ったわけです。
雌伏の時を経て、湯王は中華へ戻ります。湯王は名臣・伊尹を三顧の礼で迎えて、夏王朝・昆吾氏との三つ巴の戦いに挑みます。夏王朝・昆吾氏を破った湯王は紀元前 17 世紀頃に商王朝を開きます。商王朝は 30 代続きます。破れた昆吾氏は後に春秋時代の大国・楚を建国します。
なお、「殷」は周王朝などによる他称です。宮城谷作品では、一慣して自称「商」を使っています。
「天空の舟—小説・伊尹伝」は湯王を助けた名臣・伊尹を主人公にした小説です。伊尹は桑の木から生まれたという伝説を持ち、若い頃は料理人をしていました。伊尹は湯王に見出され補佐につきます。なお、宮城谷さんは庶民から大臣となった人は伊尹と大公望しかいないと言っています。
周
商王朝は他国を侵略すると、彼らが崇める「神」を奪う神権国家でした。次第に衰えてゆく商王朝に対して、急激な改革を進めた王がいます。商王朝最後の王・紂王です。紂王の側には箕子・比干といった名臣がありました。しかし、いきすぎた改革・暴虐の数々・妲己への溺れから人心は離れてゆきます。周の文王は冤罪で羑里に幽閉されます。解放された文王は復讐を誓い、太公望呂尚を軍師に迎えます。文王は志し半ばで亡くなり、子の武王が遺志を継ぎます。武王は、太公望・周公旦・召公らの助力で夏王朝軍を牧野の戦いで破り、周王朝を開きます。太公望が授けられた地は「斉」となり、春秋時代には大国の一つとして栄えます。
宮城谷さんの「太公望」は太公望呂尚を主人公にした小説です。遊牧の民・羌族の子として生まれた呂尚は、一族を商王朝に殺され復讐を誓います。太公望の経歴については謎が多く、周の軍師になるまでの経緯がほとんど分かっていません。例えば、「文字」は周王朝樹立後に出来るので太公望が本を読むことはあり得ません。一体、どうやって知識を得たのでしょう?
宮城谷版「太公望」は、その間をドラマティックに創作しながら、反商王朝勢力として力をつける太公望像を作り出します。
「王家の風日」は、商王朝側から周との戦いを描いた小説です。主人公は、「太公望」において最大の敵とされた箕子です。箕子は紂王の叔父に当たり、当時最高の文化人と評されていました。箕子は紂王の改革への助力をおしみませんが、次第に紂王から疎まれる様になります。そんな彼に周王朝と太公望の暗躍が耳に入ってきます。
本書は、なんとか商王朝を存続させようとする箕子の苦悩と活躍を描いた作品です。宮城谷版「太公望」と一緒に読むと面白さ倍増です。
春秋時代
春秋時代は東周から始まり、晋国の分裂をもって終わります。その後、戦国時代に入り、秦の中華統一をもって一区切りつきます。周について書きましょう。周の幽王は悪政のため紀元前 771 年に殺されます。これを持って「西周」の終わりとします。翌年、幽王の息子・平王が洛邑に周を再興します。遷都後の周を東周と呼びます。つまり東周ができた紀元前 770 年が春秋時代の始まりです。東周以降、周王朝の力は落ち続けます。本来、中華には一人の王 (周王) しかいないはずですが、まず楚が王を自称します。戦国時代に入って、他の国も王を名乗る様になります。結局、東周は紀元前 256 年、秦に滅ぼされます。秦が中華統一するのは、その 35 年後の紀元前 211 年です。
春秋時代、大国は西の秦・北の晋・東の斉・南の楚があり、続いて次国の宋・呉・越・鄭・衛、小国の曹・燕・魯・陳・蔡・杞・莱・薛・許・邾・滕 etc. 沢山の国が在ります。
春秋時代を宮城谷作品で読むに当たって頭に入れておくと良いのは、晋国の盛衰と春秋五覇の二つです。
その前に一つ脱線して、諡号について書きましょう。
諡
諡 は「し」または「おくりな」と読みます。春秋時代では、新王が前王に対して諡を付けます。諡の付け方は、前王の事業への評価がこめられています。良い行ないをした王には、文・桓・穆・荘・襄などの諡がおくられます。逆に悪王に対しては幽や厲という諡がおくられます。諡の種類は限られているので、王様が違っても同じ諡になることがあります。そのため、歴史に残る様な名君・悪君の諡は重なりがちです。例えば諡で最高位「文」を見てみましょう。太公望を見出した周王・姫昌の諡は「文」です。そのため、姫昌は文王と呼ばれます。他にも「文王」がいるので、「周の文王」と書かれることが多いです。また、晋国の覇王・重耳の諡も「文」です。正確には重耳の時代、王は周王ただ一人だけなので重耳は「文王」ではなく「文公」と呼ばれます。他にも文公がいるので、やはり「晋の文公」と書かれます。
ほとんどの王は諡号で書かれているため、諡号が重なって混乱しやすいのが春秋時代の小説の特徴です。
晋国の盛衰
晋国第十一代・昭侯の時、昭侯の叔父・成師が曲沃を与えられて分家します。しかし、この分家が諍いの元になりました。分家は本家を憎み、武公の時に遂に本家を潰します。「重耳」は晋の文公の生涯を描いた小説です。物語は、晋国の分家が生まれるあらましから始まり、武王 (重耳の祖父) が主家を乗っ取る前半、武王の子・献公が重耳を含めた公子の暗殺を試み国外逃亡する (驪姫の乱) 中盤、そして 19 年に渡る放浪の末に帰国し、晋の文公となる後半へと淀みなくつながっています。
武王と本家との戦いも面白いですが、重耳とその臣下の 19 年に渡る放浪生活も味があって良いです。特に重耳を支える臣下の優れていること!! 狐偃・狐毛・趙衰・魏犨・先軫・介子推・胥臣 etc. ある賢婦に全員が大臣クラスと褒められます。
亡命生活は、白狄から始まります。その時、重耳 43 歳。白狄を離れてからの放浪はとても大変です。衛では門前払いを喰らい、斉に入って時の覇王・桓公に厚遇されるも 5 年後に桓公が没し重耳は斉を去ります。次に曹で無礼な仕打ちを受け、宋では国君の礼を持って迎えられ、鄭で冷遇され、楚の成王にようやく認められ、秦の穆公の助力で晋へと帰国します。
その後、士会や郤缺ら名臣を加えて「晋の文公」は磐石となります。
後に晋は魏・趙・韓に分裂するわけですが、魏・趙の始祖が重耳の臣から始まっているというのも凄いですね。
「介子推」は重耳に仕えた棒の達人・介子推を主人公にした小説です。これは重耳の亡命生活を臣下の側から見た小説と言っても良いかもしれません。
介子推は何度となく重耳の命を救いますが、臣下としての位いが低かったため重耳の目にとまることはありませんでした。そんな重耳を介子推は「名君」に非ずと判じ、母を伴って山へと入ります。後に重耳は介子推の功を知るのですが、介子推は二度と姿を見せませんでした。その代わり、介子推は「晋の文公」以上の神的な存在として記憶されることになります。
介子推をひきたてる先軫がステキ。
「沙中の回廊」は重耳の臣下である士会を主人公にした小説です。士会は重耳の亡命には加わらず、重耳が君主となってから先軫にひきたてられて、重耳の車右となった人です。冒頭にサラリと出てくる介子推がかっこいい。介子推の去り様が一番良く描かれている作品かもしれません。
士会は秦へ亡命するも、郤缺の策略で晋に引き戻され、最終的には晋の正卿 (宰相) にまで登りつめます。士会は軍略の天才でもありました。士会以前の天才というと、伊尹や太公望くらいでしょうか? 呉の孫武 (孫子) はまだ生まれていません。
郤缺と士会のやりとりが面白いです。郤缺は士会の才を見抜いて、士会を亡命した秦から晋へと引き戻すのですね。士会は郤缺の子・郤克に正卿の位いを譲り政界を去ります。
「孟夏の太陽」は趙国を樹てた趙家の盛衰を描いた短編集です。4 つの短編から成っています。主人公は 1 編目が趙衰の子趙盾、2 編目が趙朔と趙武、3 編目が趙鞅、4 編目が趙無恤 です。趙家は趙衰に始まり、趙朔・趙武・趙鞅・趙成・趙無恤と続きます。趙朔の時、趙家は一旦絶えかけますが趙武が再興します。趙無恤の時に、趙国を樹立します。
春秋五覇
春秋五覇とは、春秋時代に周王に代わり天下を動かすほど力を持った 5 人の諸候のことです。大国の公は覇者になることを常に夢見ていたと言っても過言ではありません。斉の桓公と晋の文公は別格な覇者ですが、他の 3 人を誰にするかについては諸説あります。ここでは孟子の挙げた 5 人を春秋五覇と呼びましょう:
- 斉の桓公 (在位紀元前685年 - 紀元前643年)
- 秦の穆公 (在位紀元前659年 - 紀元前621年)
- 宋の襄公 (在位紀元前651年 - 紀元前637年)
- 晋の文公 (在位紀元前636年 - 紀元前628年)
- 楚の荘王 (在位紀元前614年 - 紀元前591年)
宮城谷 昌光
講談社 1999-09-06
Amazonで詳しく見る by G-Tools
「春秋の名君」には春秋時代の名君の簡単な紹介が載っています。名君紹介は最初の 50 ページだけで、残りはエッセイとなっていますが、概略を掴みたい人には良いでしょう。
紹介されている名君は 12 人です:
- 鄭の武公
- 鄭の荘公
- 魯の荘公
- 斉の桓公
- 宋の襄公
- 楚の成王
- 晋の文公
- 秦の穆公
- 楚の荘王
- 呉の闔廬
- 呉の夫差
- 越の句践
斉の桓公
斉の桓公は最初に覇王になった人です。「管仲」は斉の桓公の丞相を務めた管仲を主人公にした作品です。もとは公子小白 (後の桓公) と君主争いをしいた公子糾の傅 (先生) でした。この君主争いで管仲は小白に矢を当てます。しかし、小白は運よく死にませんでした。そして君主争いは小白に運配が上がってしまうのです。ところが、公子小白の傅であった鮑叔は丞相の位いに登らず、管仲を推して自らは退きます。「管鮑の交わり」と呼ばれる故事です。
桓公の丞相となった管仲は農地改革などを行ない、桓公を覇者へと導きました。
「管仲」では、管仲と鮑叔との出会いや管仲の不遇時代を小説らしく作り上げています。お互いを認め合っているからこそ、相手を軽じない後半の君主争いは目が離せません。
管仲の死後、第二の管仲になろうと重耳が斉へやってきますが、その話は「重耳」「介子推」をお読み下さい。
秦の穆公
穆公は秦において、最初に中華統一を目指した人です。国土の充実、名臣のひきあげを行ないました。穆公にとって誤算だったのは、恩を売ろうと重耳を晋に帰す手助けをしたことでしょうか? 思いもかけず、重耳は国をまとめ「晋の文公」となり、秦国が東へ進出するのに邪魔な大国「晋」を作ってしまいました。穆公の願いは、戦国時代の嬴政 (後の始皇帝) によって本壊をとげます。
さて、穆公を直接扱った本を宮城谷さんは書いていませんが、「重耳」「沙中の回廊」で穆公の活躍 (?) を読むことができます。
宋の襄公
重耳が宋に放浪してきた時の君主です。その時、宋は楚にギッタンギッタンにやられたばかりでした。でも、襄公は重耳に目をかけ馬車 20 乗を送ったとされます。「重耳」「介子推」でちょこっとだけ登場します。さて、宋が楚に敗北した戦についても書いておきましょう。宋と楚は泓水という川を挟んで決戦を行ないます。楚兵は川を渉りはじめますが、宋の襄公は渡河中に攻撃するのは卑怯である、として楚兵が渉りきるのを待ちます。その後、両軍は戦かって宋は負けます。この時の情けを「宋襄の仁」と呼びます。襄公はこの時の傷がもとで、翌年歿します。
晋の文公
晋国の盛衰を参照して下さい。楚の荘王
「鳴かず飛ばず」の故事で有名な王です。春秋時代の喪は約 3 年と長く、新王は喪に服して聴政を行ないません。その間は大臣に政治をまかせます。服喪中、新王は生活を謹しまなければならないのですが、荘王は日夜宴席を張り、諫言する者を殺すと宜言しました。放埒な新王を見た悪臣はやりたい放題。しかし、喪が明けると荘王は悪臣を誅殺し、目を付けておいた良臣を登用したのでした。「夏姫春秋」は宮城谷さんが春秋時代の二大美女の一人に数える鄭の公女・夏姫を主人公にした小説です。夏姫の兄は人質として楚に出されるのですが、そこで太子時代の荘王と出会います。後に荘王が服喪を終えると、鄭の王となった兄は楚と結ぼうとします。が、残念なことに大臣たちに殺されてしまいます。荘王の活躍シーンは少ないですが、読むと荘王が好きになる本です。
夏姫本人のお話しは、ちょっと不幸せが続いて、読んでで悲しいかな?
「華栄の丘」は宋の名宰相・華元の活躍を描いた作品です。「宋襄の仁」で有名な襄公の後、宋の君主は成公・昭公・文公と続きます。昭公は悪君で、公子鮑は暗殺を企てますが、一太夫の華元に止められます。後に昭公が部下に暗殺されると公子鮑は文公として即位し、華元を右師 (宰相) に抜擢します。
宋は「礼」を大事にする国で、晋の盟下に入ってからは楚に何度強迫されようと晋から離れることはありませんでした。この点、鄭の国とは大違いです。しかし、楚の覇者・荘王が本気で宋を攻める日が来ました。おりしも、晋は邲の戦いで楚に大敗したばかりで救けを出せません。荘王はこの戦いの後、大きな戦をすることなく世を去ります。
春秋後期
春秋時代の前半は春秋五覇の時代です。その後、君主の力は弱まってゆきます。春秋後期は名宰相の時代でした。「晏子」は管仲以来と言われた斉の宰相・晏嬰とその父・晏弱を描いた小説です。
話はちょうど「沙中の回廊」で士会が郤克に正卿の座を渡す前後から始まります。郤克は斉に辱められたのを怒り、斉の使者を殺そうとします。斉の使者は殺されるのが分かっているので、副使に任せて逃げ帰ります。その時の副使が晏弱でした。彼は幽閉されますが、何とか帰国します。その後、将軍として莱を平定します。
息子の晏嬰は、暗君にも明君にも実直に仕えます。
「子産」は鄭の宰相・子産を主人公にした小説です。鄭は北の晋・南の楚に挟まれる位置にあり、晋に同盟を盟っては楚に攻められ楚に降り、それを晋に咎められれば楚を裏切り、という政治を繰り返してきた国でした。「夏姫春秋」で改革をしようとした王は、この両面外交をやめようとする途中で命を落とすのですね。結局、鄭が清い外交を行なうのは「子産」の誕生を待たなければなりませんでした。
時代としては、ちょうど「晏子」の作品とオーバーラップします。晋・楚の人間も同じ人達が出てくるので、「晏子」とセットで読むと良いでしょう。あと、趙武が出てくるので「孟夏の太陽」も読んでおくと、なお楽しめます。
0 件のコメント:
コメントを投稿