2011-08-13

重耳 (宮城谷 昌光) を読む

重耳(上) (講談社文庫) 重耳(中) (講談社文庫) 重耳(下) (講談社文庫)

「重耳」は中国古代の春秋時代に、晋の文公として中国の覇者になった人です。小説「重耳」の魅力は、沢山の有能な部下と 19 年に渡る流浪の旅の末に晋へ戻り君主となるところです。

重耳の国はもともと晋の分家筋でしたが、重耳の祖父・武公が本家を滅ぼし晋の本家となります。さて、武公が亡くなり献公 (重耳の父) の代になった時、驪姫の乱が起きます。献公の寵姫・驪姫が自分の息子を世継ぎにしようと、重耳を含む公子 (王子) 達を殺そうとしたのです。重耳は数少ない重臣を引き連れ白狄 (中華の北の遊牧民) の地へ亡命します。そこから 19 年という流浪の旅が始まるのです。

臣下

重耳に従った臣下についても述べましょう。有名所は狐偃狐毛趙衰魏犨先軫介子推・胥臣。狐偃と狐毛は兄弟で、狐偃は重耳の右腕的な存在です。狐偃・狐毛一族は後に晋で一大勢力となりますが増長し過ぎ、後に滅ぼされます。趙衰は詩を嗜む才人で、彼の子孫の多くが晋の宰相となる名家となります。戦国七国の一つ「趙」国の祖でもあります。魏犨は武人で重耳の車右となります。車右とは、王が戦車に乗る時に王の右に立つ人のことです。国一番の勇士がなるとされます。魏犨の系譜は後に戦国七国の一つ「魏」国を生みます。先軫も武人の一人で、狐偃亡き後、宰相の座につきます。介子推は棒の達人とされ、重耳を暗殺から何度も救い、流浪の旅にあっては食料を求めて最もよく働きますが、重耳が晋に戻った時に何の俸禄も与えられませんでした。これは介子推が貴族ではなかったため、重耳の目にその活躍が入らなかったためとされています。ともあれ、介子推は姿を消し、後に彼の働きを知った重耳は介子推を求めて大捜索をすることになります。しかし、重耳は介子推を見つけることが出来ませんでした。現在、介子推は神様の一人として祭られています (日本の菅原道真が「学問の神様」として祭られるようなものですね)。数多い重耳の名臣の中にあっても、神として崇められるようになったのは介子推をおいて他にありません。

曹の宰相・僖負覊きふきの妻は人物鑑定の才があり、夫に請われて重耳と臣下を見ます。そして 公子は賢人です。それにもましておどろかされたのは、従者のかたがたです。そろって宰相の器ではありませんか。数人の宰相がたった一人の公子をお輔けしているのですから、晋国が手に入らぬはずはありません (下巻, p.198) と言うほどです。

放浪

最後に、重耳の放浪について書きましょう。白狄に逃れた重耳は一時の安寧を得ますが、その後放浪の旅に出ます。訪れた国を順に書き出すと、衛・斉・曹・宋・鄭・楚・秦です。重耳は衛・曹・鄭では冷遇されますが、斉・宋・楚・秦では好遇されます。この時、好遇した国の君主を挙げてみます。斉の桓公、宋の襄公、楚の成王、秦の穆公です。このうち、斉の桓公と宋の襄公、そして秦の穆公は春秋五覇に数えられる名君。楚の成王も楚の荘王(春秋五覇の一人) に次ぐ名君です。名君は名君を知るということでしょうか。

皮肉なのは秦の穆公です。秦は中華では最西の国で、中華統一を悲願にしていました。ところが、重耳(晋の文公) は穆公が予想した以上の名君だったのですね。晋は秦の東に在りますが、文公によって晋国が強力になってしまったため、秦の中華統一は大きく遅れてしまいました。

0 件のコメント:

コメントを投稿