2006-08-25

映画「ゲド戦記」批判

公開初日に観た「ゲド戦記」。あまりのヒドさに、言葉少ななエントリーを書きました。あれから数週間、ようやく自分の言葉でどう悪い作品だったのか表現できるまで落ち着いたので、ちゃんと書いてみます。

なお、このエントリーは、ネタバレを含みます。そういうのが嫌な方は、お読みにならないで下さい。

また、このエントリーは原作既読者を対象にしています。というのも、私は原作のファンであり、原作ファンの視点でしか映画を観ていないからです。今の私に、原作を未読の方々の視点を想像することは出来ません。どうぞご容赦下さい。

映画を観に行く時の覚悟

世間には、ジブリの作品として云々、宮崎吾朗監督は云々。という批判があります。これらの批判は、ジブリ作品への期待の裏返しだと私は思っています。高品質なアニメーションを創造し続けて来たジブリにしては、映画の質が低かった。だから怒っているのではないか、と。

映画を観る前に、私は Yahoo! 映画のユーザーレビューを読みました。試写会を観た人達のレビューが (その時は) 並んでいました。

レビューには、「声が聴き取りにくい」「内容が理解できない」「意味不明」「ヒドい出来だった」という評が大勢を占めていました。

そこで私はこう考えました。

映画ゲド戦記はジブリの作品としては質が悪く、監督も初めてということで、厳しい評が多いのだろう。しかし原作を忠実に映画化したから分かりにくい映画になったのかもしれない。原作は、難しいテーマを描いているし、映画としての盛り上げ所も少い。ロード・オブ・ザ・リングも人と地名が多すぎて分かり難いという批判もあったしね。そういう意味では、逆に原作に忠実だと期待してもいいのかも。

よし。映画そのものの出来は悪いことを覚悟しよう。むしろ、原作との忠実さを知ることを目的に、映画を見に行こう。

その時、100 近い評を読んだのですが、原作との乖離について言及しているものはなかったのです。

そうして、私は、ジブリとしては質が低いことを覚悟して、映画館に出かけました。

しかし、実物は、私の予測の上を行く低品質だったのです。アニメーション技術も、脚本も、原作への忠実度も、物語の世界観もひどい出来でした。

アニメーション

アニメーション、というか映画には、いくつかのテクニックがあります。監督としての見せ方というのでしょうか。

この点でレビューに挙がっていた問題点は、主に二つでした。一つは、急な場面転換が多いこと。確かに、原作を読んでいても、話の流れに置いてきぼりになりかける場面転換がいくつかありました。

もう一つは、説明的な会話が多いこと。映画の重要な部分を、ほとんどが登場人物の会話に放り込んでしまっています。結果、話しが長く、興に乗らない作品になりました。「アニメーション」が形になっていたのは、アクション・シーンだけ。それ以外は、まるで、ラジオの朗読を聞いているような気分でした。その上、声が聞き取りづらい。となったら、面白くもないでしょう。

でも、それは別にいいのです。

下手に塗りたくられた空や街並みを、ロード・オブ・ザ・リングのように流して見せる演出のもいいんです。

ウサギが、ルパン三世からカメオ出演した悪役よろしく、オーバー・リアクションで話すのもいいんです。

よくはないけど、いいんです。

でもね。

ゲドの手が変に大きく描かれるのは、困ります。

アレンが歩幅通りの距離を歩いてくれないのは、困ります。

※影のアレンの歩きも変でしたが、あれは演出でしょう。

デッサンを正しくとか、人が地面を歩くとか、そういうのって、アニメーションの基本でしょう?

残念なことに、映画「ゲド戦記」はテレビで放映されてるアニメよりも出来がヒドいです。ジブリの作品の中に素人っぽさが見えるというより、素人の作品の所々にジブリの技術が見える感じです。

脚本

映画「ゲド戦記」は、原作の第三巻「さいはての島へ」を映画化しています。

原作「さいはての島へ」のあらすじはこうでした。魔法の力が失われ、世界の秩序が崩れるという異変が起きます。その原因は不死を願う魔法使い「クモ」が「両界の扉」を開けたことでした。ゲドは王子アレンを連れて旅に出ます。ゲドは、「さいはての島」でクモを退け「両界の扉」を閉じ、全ての魔法を使い果たします。(詳しいあらずじ)

映画版「ゲド戦記」はどうでしょう。映画版でも、原作と同じく世界の均衡が崩れています。ゲドはアレンを連れて旅に出ます。クモが現れ、「両界の扉を見付け不死にならん」とする野望を語ります。アクション・シーンがあって、クモは殺されます。

映画版の問題は、世界の均衡が崩れている理由が分からないことです。原作を読んでいれば、両界の扉を開けたからだと推測はつきます。しかし、映画版では、この両界の扉をゲドは閉じないのです。扉が閉じなければ、世界の均衡は元に戻りません。これはどうしたことでしょう。

映画をよく見ると、クモは両界の扉を見つけたと言ってはいますが、開けたとは言っていません。もしかしたら、扉は開いていないのかもしれません。扉を開けようとしているクモを倒すだけで、解決になっているのでしょうか? いえ。扉が開いていないのであれば、世界の均衡が崩れた理由が分かりません。

では、世界の均衡が何故崩れてしまったのでしょう。映画版では、満足のいく説明はありません。そして、肝心の問題が宙に浮いたまま、映画は終わります。

これが、多くの人々に、物語がよく分からなかったと思わせる原因でしょう。

原作への忠実度

映画は、原作から名前とアイデアだけを拝借したとしか思えない程に、原作を改悪しています。

一番まずいのは、ゲドと再開したテナーがゲドを「真の名」で呼ぶ所です。ゲド戦記の世界では、真の名は乱りに口に出さない事がルールです。真の名を教えることは、例えていうなら、銀行通帳と印鑑とパスワードを他人に預けるようなものです。にもかかわらず、他に誰が聞いているか分からない家先で、大声で「ゲド」とテナーは口に出します。呆れて物が言えません。

ゲド戦記の世界観として、絶対に疎かにしてはいけない真の名がこの扱いなのですから、他もひどいものです。

三巻に登場しないテナーやテルーが登場するのはいいとして、アレンは親を殺すし、影に追われるし。アースシー (多諸島世界) なのに、海に出ることもない。

こと、魔法に到っては、ひどい扱いです。魔法の剣で魔法を弾いたり、城に入ると力が入らなくなり魔法が使えなくなったり。原作に、そんな便利な道具は出てきましたっけ? いつから、ゲド戦記の世界は、RPG のような簡単な作りになったんでしょう。

ディズニー映画の「ライオン・キング」は、手塚治虫の「ジャングル大帝」のパクリだと言われていました。しかし、まだライオン・キングの方が、登場人物の名前が違うだけで、原作に忠実と言えそうです。

物語の世界観

物語を描くには、世界観の構築が不可欠です。映画「ゲド戦記」は、世界観が砂上に構築されているように感じます。

例えば、王子アレンは自身の影に追われています。これは、ゲド戦記の一巻目「影との戦い」から得たアイデアでしょう。

「影との戦い」で影に追われたのはゲドでした。ゲドは、若さ故に魔法で自身の影を呼び出してしまいます。最初は、影から逃げていたゲドも、最後、自身の影と向き合い影を受け入れます。

映画版で影に追われるのはアレンです。魔法の使えないアレンは、どうやって影を生み出したのでしょう。どうやら、自分の心の弱さを受け入れられないことから、影が生まれたようです。葛藤から「影」が生まれる。なんてお手軽な設定でしょう。世界のルールに従うなら、魔法の存在は魔法から生み出されるべきです。そこを魔法なしで解決してしまうあたり、製作者の都合で物語が進んでしまっています。そんなものだから、魔法の剣や力を無力化する城などという、マンガのような道具が出てくるのです。だから、製作者の都合と原作の厳格な枠組が混ざって、チグハグで説得力のない世界観が出来上がったのでしょう。

出来の悪い世界観は、物語のしまりを無くし、観客の多くを困乱させたと思います。

あとがき

映画版「ゲド戦記」の出来については、原作者のル=グウィンさんもおかんむりのようです。

映画を観た人の中には、原作とは別に考えて、映画は映画として楽しめばいい、という考えの方もいらっしゃるようです。事実、原作を読まずに映画を観て、映画「ゲド戦記」を感動したと言う人もラホラ。どうやら、「親殺し」というキーワードと宮崎親子の関係をからめて観ると楽しめるらしいです。そういう見方もあるのかと目から鱗でした。

けれどね。例えばロミオとジュリエットを映画化したら、対立する両家にやって来た用心棒が両家の人達を皆殺しにする話になったらどうでしょう。登場人物にロミオとジュリエットが居ても、それは「ロミオとジュリエット」の映画化じゃなくて、「用心棒」の映画化だと言いたくなりませんか?

少くとも、今回の映画は「ゲド戦記」ではないと思います。この映画が「ゲド戦記」と呼ばれるのは、原作ファンとしてはツラい思いです。

2006-11-16 修正

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