2013 年 10 月 26 日、「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語」が公開されました。公開初日に観に行きました。3 回鑑賞 (最速上映 2 回、普通上映 1 回) しましたので、映画の結末について感想というか所感を書きます。
映画を観た人に向けて書きますので、ネタバレを含みます。
映画を未見の方は、ここから先を読まないで下さい。
読む前に...
まどか☆マギカは TV 放送 12 話、劇場版 前・後編、劇場版 [新編] 叛逆の物語 の 3 作品が作られています。本エントリーでは、TV 放送分を「TV 版」、劇場版 前・後編を「前作」、[新編] 叛逆の物語を「本作」と便宜上呼ぶことにします。
結末はハッピー・エンドかバッド・エンドか?
先に結論を書きます。本作は「バッド・エンドを含むハッピー・エンド」だと思います。
何故、本作を「ハッピー・エンド」と思うのか。その話をする前に前作について書きます。
前作では、まどかが「円環の理」という概念にシフト・チェンジすることによって、全ての魔法少女が希望を絶望で終わらせないよう、宇宙を再構成します。副作用として、最大の魔女である「ワルプルギスの夜」も、魔女化する前に「まどか=円環の理」によって救済され、まどかの住む町も救われました。これは大きく見ればハッピー・エンドですが、その犠牲として、まどかは人でも魔法少女でもなくなり「概念」となってしまいました。そういう意味ではバッド・エンドです。まとめると、前作は「バッド・エンドを含むハッピー・エンド」な作品でした。
さて、本作。ほむらはソウルジェムを濁らせてダークオーブを生み出します。その過程で、「まどか=円環の理」から概念になる前のまどかを切り離し家族の元へと帰します。また、人間の感情エネルギーを利用していたインキュベーターの方針を転換させ手を引く決論を引き出します。とはいえ、それでは魔獣と対決する魔法少女のサポート役が居なくなってしまうので、その役割だけは続けるよう取り計らいます。これは大きく見ればハッピー・エンドです。しかし、そのためにほむらは「円環の理」という宇宙のルールに叛逆する必要がありました。結局、ほむらは「神」の様な存在にシフト・チェンジせざるを得ませんでした。それは「円環の理」ほど大きな存在ではありませんが、確かに「円環の理」と一部対立する存在とならざるを得なかったのです。そういう意味でバッド・エンドです。まとめると、本作も「バッド・エンドを含むハッピー・エンド」なのだと思います。
思えば前作。まどかが魔法少女の願いを叶えた時、まどかは「願い」によって自分自身も消滅させる必要がありました。まどかは消えましたが、「願い」は残り、「円環の理」という概念へとシフト・チェンジしたわけです。もしも、都合の良いストーリーにできるのなら、「魔法少女が魔女になる前に救済される」と同時に「まどかは普通の少女のままでいる」という結末が一番幸せだったでしょう。当然、それは魔法少女のルールから外れることですから、そんなご都合主義は通らなかったわけですね。
ところが本作。ほむらはソウルジェムがダークオーブへと相転移する時の膨大なエネルギーを使って宇宙を再構成します。自らが犠牲となることで、「円環の理」という宇宙法則はそのままに、「鹿目まどか」という存在を復活させました。
ほむらは常にまどかのために
何故、ほむらはそんなことをしたのか。
ほむらが魔法少女になった目的は、まどかを助ける自分になりたい、というものでした。
そして何度も時間を遡行する内に、まどかから「キュウベえに騙される前の、バカな私を救ってあげてくれないかな?」と頼まれます。この頼みが、ほむらの行動を縛り続けました。ほむらは、まどかが「円環の理」になる直前まで、その頼みを守ろうと懸命に頑張ります。
まどかが「円環の理」という概念になった後は、まどかが「守ろうとした世界」を愛しく思い彼女の意思を引き継ぎ魔法少女としての戦いを続けます。
まどかが「円環の理」であることを良しとしていたほむら。その彼女が大きく舵を切り直した理由。それは、まどかと一緒に居たいなどという自己満足ではありません。彼女が決心した理由は再びまどかにありました。
自分が魔女ではないかと確かめる直前のまどかとの会話です。ほむらは、そのまどかが本物のまどかと確信しています (実際、本物です)。そのまどかが言うのです。
「だって私だよ。そんな辛いことに耐えられるわけない」。
ほむらは「まどか」の口から本心を聞きました。その本心がほむらに決意をさせたのでしょう。
口では無理といいつつも、まどかには最後に決断する「勇気」がある、まどかは「優しすぎる」。しかし、それが耐えられないほどに辛い選択なのだったとしたら。どんな手段を使っても止めるべきではなかったのか? 止められなかったのであれば、これから先、チャンスがあればどんな手段を使っても救うべきではないのか。これが、ほむらの決心した瞬間だと思います。
蛇足ながら付け加えるならば、ほむらはまどかに対して自分が「悪」であると一言も言っていません。キュウベえの質問「君は一体何者なんだい?」に応えて「あの神に等しい存在をおとしめた」「悪魔と呼ぶべきかしら」、さやかの「何をしたのか分かっているの?」という詰問に対して「今の私は魔なるモノ」「摂理に反するものじゃない」、などと自分を「悪魔」として印象づけています。これって売り言葉に買い言葉を返してるんですよね。ほむら自身の言葉という気がしない。そして、ほむらはまどかに自分の存在を尋ねているのです。「秩序=円環の理を破るのはいけないと思うか?」と。自らを悪魔と自認しているなら、最初からこんな質問はしません。答えが知りたいから質問するんですよね。秩序を乱した自覚はある。けれどそれは「魔」なのか? 「悪」なのか? まどかが「いけないことじゃないかな」と返すと、ほむらは自分は将来敵になるかもしれない、と答えます。まどかにリボンを返し、「あなたの方が似合う」といって喜びの笑みを浮かべ、涙をうかべたほむらは、「敵」としてはこの時点で敗けたように思いました。ほむらは、まどかの敵となっても、まどかの為に尽くすのでしょう。最初から勝利を諦めている敵なのでしょう。
彼女はきわめつけのイレギュラーだ
ほむらは本当にイレギュラーな存在です。
前作ではまどかに因果を集中させる副作用を与えて、「願い」だけで宇宙を再構成させるほどの力を与えました。
今作では、インキュベーダーの予測を上回るイレギュラーぶりを発揮します。ほむらが「まどか」を「円環の理」から切り離そうとしても、神に等しい「まどか=円環の理」から一部を奪い宇宙を再々構成するには大量のエネルギーが必要です。そのエネルギーを持っていたという幸運。
「呪い」がソウルジェムを濁らせる、という定説を裏切って、「愛」でソウルジェムを濁らせるという前代未聞の現象を起こしていたこと。ソウルジェムがグリーフシードに相転移する時に膨大なエネルギーを受むことは既知ですが、ソウルジェムがダークオーブに相転移する時のエネルギーをインキュベーダーに回収させず、自分の目的のために使う発想と技術。
そのエネルギーを使って、宇宙を再構成するというウルトラ C を成功させたこと。いくら彼女の魔法が「時間」を扱う種類のものだとはいえ、時空間に干渉するというのは難易度のレベルが違います。
前作でキュウベえに言われていましたが、本作では更に上回っています。
彼女はきわめつけのイレギュラーだ。どういう行動に出るか、ぼくにも予想できない
今後について
次回作は出来るのでしょうか? 私は作って欲しいです。
前作は全ての魔法少女が救済を受ける代わりにまどかが犠牲になりました。今作はインキュベーダーの干渉をやめさせ、まどかを救うためにほむらが犠牲になりました。できれば次作ではほむらも救われる展開を期待したいです。
それと、今回記事にしたことを友達に話したところ、「円環の理」は「まどか」抜きでちゃんと働くのか? と応えられました。興味深い質問です。
ほむらは、「円環の理」から「概念になる前のまどかの情報だけを抜き出した」と言っています。そして、それは「円環の理」に支障はないと考えているようです。しかし、「まどか」が抜けたことで「円環の理」に歪みが生まれないとも限りません。
最後に一つ。まどかは「円環の理」へとシフト・アップすることで初めてほむらを「大切な友達」「最高の友達」として認識することができました。ほむらは、その「円環の理」からシフト・アップする前の「まどか」の情報だけを抜き出しました。ですから、まどかはほむらを普通の友達としか認識できません。逆を言えば、「円環の理」の中には、シフト・アップ後にほむらを「大切な友達」「最高の友達」と認識した「まどか」の意識が残っているはずです。その「円環の理」が自分を犠牲にしたほむらを救わないということはあるでしょうか? ほむらがただの人間や魔法少女なら「円環の理」は干渉できないでしょう。しかし、ほむらはまどか同様、宇宙を再構成した存在です。神に近い存在です。ならば、「円環の理」の干渉を受けることもあるのではないでしょうか? ほむらを倒すためではなく、救けるために。
本作でも十分満足ですが、できれば次作 [新編] 救済の物語 の様なものが作られれば、それはとっても嬉しいなって。
0 件のコメント:
コメントを投稿